甲賀三霊山~飯道山~

 飯道山は滋賀県の東南東部に位置し、標高664.2mの中山級の山岳で、一般向けの山岳である。地形は複雑に入り組んだ丘陵で広く覆われている。一つ一つの山は高くないが、古代から中世にかけて多くの山岳寺院が成り立っていたことで知られています。
 また、山上付近を歩いてみると、巨岩、自然石が至る所に点在しており、こうした山の景観は、近江以外では、山岳霊山の代表である大峰山(奈良県)に見られるが故に、飯道山と大峰山の係わりが密になっていたと思われる。現在も大峰山との繋がりは、江州飯道山行者講を介して受け継がれている。
 おそらく飯道山も古来以来、巨岩信仰や、自然石信仰に基づく山中修行の修験行場になって現在に至っていると考える。(甲賀市史より参照)
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飯道山の由来~歴史的経緯~

 その歴史は、和銅7年(714年)金勝寺の安皎の中興と伝えられている。
 古来以来の信仰につては、
 ①自然崇拝(主に水に係わる信仰)
 ②霊魂崇拝(死者が出ると山中や、山麓に葬る霊魂の信仰)
 上記の2つの信仰があるが、飯道山の場合は霊魂信仰として、死者の魂を管理する宗教施設としての堂、庵または、山中修行者の生活空間として山岳寺院が作られた。また、山中修行等による呪験力を目的として種々の祈祷を行った。その起源は、奈良時代にさかのぼり、役小角(役の行者)をその始祖とし、仮託した。(甲賀市史より参照)
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飯道山の中世の時代

 この時代になると、(平安時代)神、天台宗に加え浄土宗派が進出し、飯道寺は神仏習合の飯道寺として栄え、山頂には数多くの僧坊が建ち並ぶ大霊山の一つであった。ここから甲賀の宗教を特徴づける飯道山を中心とする修験道が具体的な姿を現わす。
 また、古代の山岳寺院、中世は修験に霊場で知られた飯道山は天然の要塞であった。
 織田信長の晩年には、修験行者を中心に甲賀衆も天下統一のための戦乱に動員されるようになった。その具体的事例として、1581年の伊賀進攻と、1582年の四国出兵では動員され、織田信長も甲賀の飯道寺へ立ち寄っている。
 この事は、飯道山によって甲賀を守ってもらうという反面、飯道山の入り口付近に城砦を集中し、築いた城が多くある。まさに乱世戦国の世の中の飯道山山麓の中に存在していた修験道者達の存在が注目されていたと思える。(甲賀市史より参照)

飯道山と忍者

 甲賀忍者は隣国の伊賀忍者と共に、世界に知られた存在である。今では日本の文化的価値のある存在になっている。忍者の修行のイメージから分かる様に、飯道山系には「隠里」にふさわしい地形、修験道に特徴づけられる宗教文化が息づいている。また、甲賀衆に受け継がれその活躍が「シノビ」から「忍者」につながり現在に至っている。
 古来飯道山での修験道者が現在の忍者のもとになったとも考えられ、甲賀の社会や文化を象徴するものとして今も息づいており、多くの人々に親しまれ生かされている。(甲賀市史より参照)

飯道山と大峰山との関係

 飯道山と大峰山は古来同じような地形として(巨石、自然石が多い)、山岳信仰の場として共に歩んできたと思われる。また、両霊山の関係は密接に繋がっていたと考えられる。その具体的な事例として、醍醐寺三宝院が大峰山に入峰するとき、飯道山の山伏が先達を勤めたと伝えられていることから、飯道山でも活発な修行が行われていたと考えられる。
 それらの関係が今も伝えられている行事が、毎年11月3日水口町三大寺の飯道寺で行われる笈渡しは、大峰山系での修行を終えた山伏が飯道山に帰山し、次の当番に鍵を引き継ぐ儀式が行われている。(甲賀市史より参照)
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山伏の装束

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